豊田 玉萩
豊田玉萩(1875~1933)北上市(旧黒沢尻町)生まれ

(平成3年 北上市教育委員会建立)
神よ我をば何故に
日蔭の花と咲かせける
憂ひの露にぬれつゝも
一もと淋し野べの薔薇
色香もうすきひともとの
野末の薔薇の我なれば
花は盛りにあはずして
蕾ながらに朽ちはてん
運命に散るゝ花薔薇の
薄きゑにしを悲しみて
さびしさ詫びる歌の音の
ひくきを如何に怨みん
黒沢尻の旅館伊勢屋に生れた玉萩は、難産のため生後間もなく母を失い、 自らも身体・言語に障害を持ちましたが、早くから文学に親しみ、「和賀新聞」「岩手毎日」などに詩や小説を多数発表、1907(明治40)年、浪漫的な新体詩集『野ばら』を刊行しました。しかし、新体詩は当時すでに時代の潮流に後れたものになっており、その優れた浪漫性はついに世に認められることはありませんでした。やがて家業の没落にも遭い、不遇のうちにその生涯を閉じますが、啄木らの寄稿を得て文芸誌「トクサ」を刊行するなど、当時の黒沢尻の文化に大 きな役割を果たしました。
碑文は『野ばら』の序詩で、自らの不遇な身の上が日陰に咲く一本の野ばらにたとえられ、哀切に歌われています。
碑のデザインは彫刻家の新関八紘氏、揮毫は玉萩の評伝『薔薇と原野』(1975年刊)の著者相澤史郎氏(北上市出身、東海大学名誉教授)によるものです。
なお、詩集『野ばら』は詩歌文学館で復刻され、同館で入手できます。
(本石町児童公園)
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更新日:2019年02月28日